<My Life Story>挫折ばかりの私がライフコーチになるまで
私は過去何度となく起業したいと思ってきました。
しかし自分が<世の中にアピールできるもの>を持っていないと感じて、諦めてきたのです。
転職のたび、どこかひっかかりを感じながらも生活の糧を得るためにサラリーマンであり続けました。
その結果、何か満たされずにモヤモヤした気持ちを引きずったまま日々を過ごすことになりました。
たとえ適切な評価を受けなかった時だけでなく、実力以上の評価を受けた時であっても。
性格としては真面目なのだとは思います。
一生懸命やることが大事と教えられていましたし、倫理的にもそうすることが義務と思っていました。
省力化を考えていかに自分の作業時間を減らすというよりは、チーム全体での結果の最大化を図る。
そのためには残業だろうが過重労働だろうがとにかくやり切ろうとしてきました。
プライベートは常に後回しとなりました。「No」を表現するのを避けてきた結果とも言えますが。
ただこのやり方を部下に伝えるには問題があるとも感じていました。
やり続けてはきたが、例えば自分の子どもに「こういうやり方をするのが正しい」とは言えない、と。
片手では足りないほどの転職を繰り返し、それでも働き方に矛盾を感じ続けた私。
そんな挫折ばかりの私がライフコーチの道へ進むまでの道のりをご紹介します。
具体的にはバイオテクノロジー関連の学科にいました。
同期生が最終的な進路決定をする過程で、研究者を目指すタイプ、すぐ銀行やメーカーなどに就職するタイプと明確に分離されていきます。学生生活をエンジョイすることに熱心だった就職組とは性格的に異なるという思いがあり、一方で研究者を目指すほどその分野に関わっていきたいとは思えませんでした。そんなどっちつかずの気持ちでいたときに、流れのまま大学院を受験し、合格してしまったのです。長期展望はなかったのに目先の問題だけには集中できていたのですね。
しかしながら、さほど情熱のなかった私には、惰性で継続できるほど大学院での研究活動は楽なものではなく、また徒弟制度にも似た特殊な人間関係にも疲れて、最初の年の暮れには退学することを決断します。ここで初めて就職について本気で考えることになったのです。
大学を決める際には医者になりたいという気持ちがありました。しかし人の生死にかかわる仕事は避けたいと考えて医学部を外したのです。でもこの就職に際しては、医者のような人を助ける仕事をしたいという当初の気持ちを無視しないことにしました。
「そうだ、企業のドクターになろう。そうすれば従業員やその家族を含めてたくさんの人を救うことになる。医者よりも貢献できる人数は広がるじゃないか」
こうして生涯のテーマは決まっていきました。
就職活動を本格的に開始したのは年が明けてからでした。
・人材難だったソフトウェア業界なら入りやすいかもしれない
・これからの世の中にコンピューターは必須だ、給料をもらって学ぼう
と考えました。
新聞社主催の合同説明会に参加したところ、2つの該当する会社がありました。
選んだのはゲームソフトをつくる会社ではなく、財務のパッケージソフトをつくる会社。
やはり企業のドクターになりたい、経営者に近づきたいという思いが決め手になったからに他なりません。
ソフトウェア業界から始まった
大学院ではまだワープロ専用機を使い、パソコンは研究室に最初の1台が入った程度でほとんど触ったことがありませんでした。
文系出身者が多数を占めていたこともあり、新人研修に最初からパソコンの講習が含まれていたことは自分の思惑通りでした。
また簿記の習得も要請されていて、入社前から学費補助が出されていました。
就職を早くに決めていた同期たちは、半年近くかけて簿記3級・2級の勉強をしていたようです。
理系大学の出身者は、100人近いその会社でも1ケタしかおらず(記憶では4人目)、特に開発部から注目されていたのは感じていました。
実際、パソコンの理解もプログラミングの習得も比較的短時間で一定レベルに達していたようです。
毎晩8時、9時と残業するのは日常のことでした。
大まかな設計書をみながら具体的なプログラムを書いていき、バグと呼ばれるミスを見つけては直していく・・1日中考え続ける生活が始まったのです。
パソコン自体も好きだったのでしょう。
ボーナスに若干のローンを加えてパソコンの購入費用にあて、休日も自宅でプログラムを書くまで大して時間はかかりませんでした。
当時その会社では財務ソフト、給与ソフトが主力商品でした。
これに販売管理・仕入管理ソフトをリリースしたところで、あまり時間がたっていませんでした。
同期入社から私は唯一その新しいチームに抜擢されたのです。
こうした後発分野は社内で十分な知識が社員に浸透しておらず、週1~2回順番で担当するサポートセンター業務では、チームリーダーに準ずるポジションとしてもチームを助けていくこととなりました。
サポートセンターでは電話やFAXで質問を受け付け、回答していきます。
複雑な案件になると、チームリーダーや上位者に回されてきます。
私に回された案件の一つがちょっと変わったものでした。
「財務ソフトに入力されている仕訳の摘要欄のデータを分析に使えないか」
当時、メーカーでもそんな使い方をするとは想定されておらず、そういう機能はなかったのです。
今ではエクセル等へのエクスポート機能は標準的ですが。
好奇心から、何をしたいのか目的をヒアリングすると、摘要欄に入力されている商品内容とその金額を使ってABC分析(重要性をはかる指標)をしたいという内容でした。
こうした設計を超える質問は何度か寄せられ、自分の興味を引くところとなったのです。
会社で作っているソフトをそこまで使っている現場の声は、いずれも会計事務所からのものでした。
ましてや経営者に効果的な報告をしたいので・・という質問内容。
何をやっている職場なのだろうと自分は興味をそそられたのです。
このようなプログラマー生活を続けていたのですが、開発部の諸先輩の中には、あきらかにオタクっぽい人もいて、コミュニケーションが難しいタイプも含まれていました。
この生活を続けていくと、遅かれ早かれあんな風になるかもしれないと思うと、どこかで転職すべきだと感じるようになっていきました。
それは2年目に入って昇給を確認したときに確信へと変わりました。
自分よりもどうみても仕事ができない同期とほとんど変わらないという事実を目にしたのです。
日頃のコミュニケーションでは上司と信頼も感じていたし、実際の仕事も上の年次の社員と同等の仕事を任されていました。
これでも同じレベルという判定なのか・・と正直落ち込む気持ちを隠せないほどだったのです。
たしか差額は1000~2000円程度でした。最初は大きな差をつけないのが一般的と知ったのはずっと後でしたが、とても衝撃だったのです。
そこから会計事務所の情報を集め始めたのですが、簿記検定は数カ月で合格していたものの、専門家からの評価はほぼゼロに等しいという事実を知ることになります。
いくつも問い合わせをしてみて、当時のアパートから30分くらいのところに転職が決まりました。
もう季節は夏に移っていましたが、これが会計業界に足を踏み入れたスタートとなりました。
会計業界への一歩
会計事務所では、顧問先から資料をもらってきて所内でデータ入力をした後、また訪問して結果の説明をするという巡回監査が基本でした。
報告が次回のデータ収集とタイミングが重なることが多く、経営者にとっては2カ月前の結果を報告してもらう形になっていました。
当時、自社で会計システムに入力をして、経営資料を得たり税務調査に対応しようとする会社は限られていました。
私を雇ってくれた税理士は、この自計化を進めたいと考えていました。
もっと規模が小さい会社でもスムーズに経営資料を提供できないか、そのシステム要員として私を組織に加えたのです。
まだハードディスクは高すぎる商品でした。
会計データはFD(フロッピーディスク)に格納され、高価なオフコンで処理されるのが一般的でした。
所長はこれをパソコンベースのソフトに切替え、所内コストを低減するだけでとどまらず、顧問先にも導入しようとしたのです。
確定申告などの特別な繁忙期を除くと、仕事の大半はこのパソコンやソフトの導入とその後の継続的なメンテナンスに費やされました。
そのうち通信環境を整備し、当時マニアのものだった掲示板システム(BBS)を会計事務所用に立ち上げました。
顧問先側にも通信ソフトとモデム、マクロ環境を整備することにより、ボタン一つで会計事務所に24時間データ送信できる仕組みを構築したのです。
自動運転ですべてフリーソフトを活用した仕組みは所長の夢を大きく前進させました。
瞬く間に導入は広がり、気が付くと顧問先の8割近くにも達していました。
先方で先月分を月初めには入力し、会計事務所に送信します。
担当者はこれを引きだして内容を確認し、明らかな間違いを訂正したうえで暫定情報として持参し、追加の資料を受け取る形になったのです。結果、最短で2~3週間ほどで経営者は報告を得ることができるようになりました。
この仕組みは、インターネットが広く普及するまで続きました。
こちらがひと段落すると、業務効率化を狙ってデータベースなどによる業務管理に仕事の中心は移っていきます。
本当の会計事務所業務へ
気が付くと何年もたっていました。
自分でも気になったのが、会計事務所歴が長くなっても税務申告にほとんど関わらなかったこと。
勤めて何年たっても、「それについては担当者に聞いてください」と答えるのがつらいと感じるようになったのです。
夜間の専門学校にも通うようにしましたが、十分な勉強時間もとれず、理解はさほど深まりませんでした。
職場にも願い出ましたが、開発者でもあったため、やはり大きく取り上げられることもなく時間が過ぎていきます。
仲良くしていた同僚の退職を機に、自分もその職を離れることにしました。
転職した別の会計事務所では、個人・法人の担当者として働くことになりました。
もちろんパソコンには詳しいので、サーバーや所内の10台を超えるパソコンのメンテナンスを引き受けながらではありましたが。
多分重宝されたのでしょう。通常はメンテナンスに多額のお金を支払うようです。それを内製化してしまっていました。
一方所長・番頭格の税理士との関係は決して悪くなく、おだやかな雰囲気で仕事ができていました。
雰囲気が変わったのは、複数の税理士が加わったあたり。
税理士法人となったので当たり前といえばその通りなのですが、税理士以外は特に発言権もなく、さして年の変わらない税理士から文句を言われる生活へと変わっていきます。
税務担当の業務は普通にこなしていましたが、余力があれば顧問先のパソコンの相談に乗り、システム入れ替えやマクロの活用など、業務効率化に貢献していました。
しかし新体制ではこれはやらなくてもいいこと、余計な仕事と定義され、明らかな圧力を受け続けました。
「我々のやるべきことは、1日も早く申告書を仕上げることで、コンピューターの相談ではない。
コンサルではないのだから、顧問先の内部に立ち入る必要はない」
・・という感じです。
自分のスキルを理解できる人間もなく、仕事の意義すら問われる孤立した状況が続きました。
結局十数年いたこの事務所をあきらめ、他に移ることとなります。
独立開業しない限りは会計業界の給与は総じて低く、別の事務所でも苦難は続きました。
給与水準が低すぎたり、所長税理士の考え方に賛同できなかったり・・。
長年挑戦していた税理士試験も合格がしばらく止まってしまったこともあって、税理士・会計事務所を断念し、一般の会社に勤めることにしました。
経理として転職するも・・
一般の会社において、自分の価値は何だろう・・。
そう考えていくと、数字に強いことと情報処理でした。
最初に入った会社ではデータやシステムに強いという面が採用理由として大きかったようです。
自社開発でのデータメンテナンスが業務の中心であり、会社の生命線でもありました。
データの仕組みがわかっていない経営者や大半の社員が営業できるように支える縁の下の力持ちという位置づけだったのです。
同時に総務・経理もカバーしていましたが。
ただ、データ設計が継ぎ足しで作られていてメンテナンスは極めて困難でした。経理の仕事はただ終わらせるだけであり、これでいいのかと私には疑問でした。
外国との取引をめぐって税務的なリスクがないか専門性をもって調べ続ける私に、一回り近く下の上司はおもしろくなかったようです。
まだ年相応に未熟なところがある・・と感じていた通り、感情的にふるまうこの若い上司の元で長くは続けられないと1年半ほどで職場を移すことになりました。
次の職場では一転して高評価に
次の会社では、経理部門の責任者として評価を受けることになりました。
経理としては毎月の月締めや毎日行う通常の作業はもちろん、決算や税務は外注せずにすべて担当します。
いわゆる経理の仕事以外では、
・毎年数億もの資金調達を行い、複数の銀行との交渉の窓口に立つ財務業務
・経営者の要望に応じた様々な経営資料の作成とそのガイダンス
・他部署で処理しれない高度な計算処理(人事考課や給与・賞与の集計・決定資料でした)
・土地や建物の購入にあたって、決済のほか銀行や司法書士、不動産業者とセッテイング
・契約書等の文言の法律的なリスクの検討
・係争中の案件に関する弁護士や関係当局との討論文書作成
・ホームページの文章校正
・新卒募集のための大学や専門学校訪問
・メンタル不全に陥った社員のフォロー
こうしてみると、いろいろやりましたね。
税務申告こそ会計事務所に依頼しますが、日常処理レベルは全て社内で行い、税務的判断が必要な時だけ税理士の知恵を借りる・・そんな使い方でした。
ここではグループ全体で100名を超す規模だったのですが、総務・人事機能が弱く、満足な仕事ができないのです。
ミスが多く、監督すべき管理職までメクラ判を押すだけか逃げ回るかといった有様で、給与計算まで経理が担当することになっていました。
仕事量も多く内容もヘビーでしたが、構成メンバーは若く半数を未経験者が占めていました。
そのため、月次支払や給与などルーティン業務の大半は部下に任せてそのチェックだけを行い、それ以外の臨時性の業務はすべて自分が行う形になったのです。
できる業務、任される業務が劇的に増えていくと、最初こそおもしろがってやっていましたが、「何かおかしい」と感じることが増えていきました。
受注を担当している部署からは
「経理が資料出してくれないから受注の状況がまとめられない」
主力業務である現場部門からは、
「うちの工事の原価の状況はどうなっているのか教えてくれ」
といった具合です。
担当部署が本来の仕事をせずに、経理頼みになる構図が増えていったのです。
職場の雰囲気もあまり良好とは言えませんでした。
新人こそ継続して入社してくれていましたが、長続きすることはありません。3年で残るのは1/3程度。
またメンタル不全となる社員も続いて、どの時期にも必ず長期離脱した社員がいました。
パワハラの空気は昔よりは多少よくなったとは聞いていましたが、委縮した社員、元気がない社員ばかりでした。
大きな転換点
ps.
次はあなたの番です。
あなたのこの人生での目的は何ですか?
人生を通じてあなたはどんなストーリーを語られるのでしょう?
自分にも特別な物語があると感じられた方、いつかお会いしましょう。
私はここで発信し続けながらお待ちしています。