「自分が正しい=相手の否定」でいいの?
『けんか両成敗』という言葉があります。
どっちがいい・悪いでなく
「争うこと」自体が悪いという考え方のこと。
白黒はっきりさせない考え方に
昔から疑問を感じていました。
しかし、ちょっとしたトラブルを
目撃したことが契機になって
これも【知恵】の一つではないかと
思うようになりました。
「自分が正しい!」
こういう自己主張が多いかなと思われるなら
今回の記事は必読です。
朝の散歩での風景
そのトラブルとは
朝の散歩で見かけたものでした。
自転車で行きかう壮年男性2人が
口論している様子に出くわしたのです。
2人とも60代くらいでしょうか。
一人は自転車で
道路を斜めに横切ろうとし
もう一人は道路の向こう側から
直進してきます。
2台の自転車はスピードを落とさず接近し
あやうく接触しそうになりました。
すんでのところで自転車が止まり
つかみかかる勢いで口論が始まったのです。
∴-∵-∴-∵-∴-∵-∴-∵-∴
「右側通行するんじゃないよ、
危ないじゃないか!」
「店に行くんだ、何の問題がある。
そっちこそ×△$%&・・」
語尾こそ不明確ですが、片方は相手を
つかもうと手を伸ばしていきます。
散歩中の私が近づいていくと
2人とも舌打ちしながら離れていきました。
「自分の正しさ」は「相手の否定」?
「いい年して争うなんて」・・ということが
言いたいのではありません。
感情を害すれば、怒りだって生まれます。
年齢には関係ありません。
ただ表現方法は
もう少し変わるかもしれませんが。
正しいのは自分
この2人に共通していたのは
「自分こそが正しい」という考え方でした。
自分が正しい=相手が間違っている
というわけですね。
ルールを守って左側を走っていた側も
道を横切るために道路を斜めに走った側も
一人で走っているなら問題ないわけです。
ただやみくもに自分の正当性をアピールし
お互い怒りを生むことになりました。
争うような価値があったか
道路を横断すれば、必ず両者のルートは
交差することになります。当たり前ですね。
老化に伴い相手の動きへの判断が
遅れたということもあるかもしれません。
でも進路を変えるなり、タイミングをずらすなり
どちらも対処はできたはずです。
そんなわずかな余裕があれば
ニアミスは起きなかったのですから。
私なら、「ちっ」と舌打ちする程度かな (笑)
※聞こえない程度に
同じ出来事から正反対の世界が生まれる可能性がある
いずれにせよ、心に余裕があれば
こんな経験せずに済んだはず。
とっさに血がのぼるクセを
2人ともお持ちだったわけです。
愛を感じたときの世界とは
自分も自転車を止めましたが
相手も止まってくれたという事実があります。
ここに愛や感謝を感じることは可能でした。
「ありがとうございます」
「私のほうこそ、ごめんなさい」
こんな気持ちのよいやり取りだって
選択できたのです。
∴-∵-∴-∵-∴-∵-∴-∵-∴
一方、感情に火がつけば
暴言、暴力にだって発展します。
相手に非があることを理由に
・口をきわめてののしる
・相手をとらえて暴力に訴える
彼らに孫がいたなら
「おじいちゃん、やめときなよ」と言われそう・・。
けんか両成敗の意味
その意味では両者に落ち度があったわけです。
けんか両成敗は
「争ったからダメ」という意味でなく
争いになりやすいマインドの状態だからこそ
「それぞれに改善しようよ」ということ。
勝ち負けの判定でなかったのですね。
∴-∵-∴-∵-∴-∵-∴-∵-∴
つまり、同じようなタイプの方が出くわして
「学びの機会を得た」のが
先ほどの出来事の意味だったわけです。
偶然は偶然なのですが
「もし意味があるとすると」と問いかけて
私に浮かんできたのがこの結論でした。
・もっと度量が大きければ・・
・感謝の気持ちを伝えていれば・・
それを見る機会を与えてくれたことも
私への学びの機会だったということかもしれません。
「自分にできることはなかったか・・」
怒りを感じそうなとき、思い浮かべてみては
いかがでしょうか。
怒りのコントロールとDVの問題
「怒ると何をするかわからない」
こういう理由で遠ざけられたり
心を開いてもらえないケースは多々あります。
笑っているときはいいですが
何をきっかけに
感情が激するかよくわからない。
何をするのか・されるのか
身に迫る危険を感じるとしたら
近づく気にもなりません。
ある程度年齢が過ぎれば
もう教えてくれる人さえいなくなります。
∴-∵-∴-∵-∴-∵-∴-∵-∴
DVはそんな典型例の1つ。
笑いながら暴力を加えることは考えにくい。
※あるとしたら別の性格上の問題
やはり引き金は「怒り」でしょう。
怒りをコントロールできていたら
破壊的な結果にはならないはず。
∴-∵-∴-∵-∴-∵-∴-∵-∴
本人にとってみれば
怒りを抑え込む・ガマンするのは
不自然と思うかもしれませんが
「暴力にそれだけの価値があるのか」
自問するのは本人の責任です。
身近にいる存在を感情のはけ口にしていたら
決して「共感」など得られません。
愛する存在を傷つけることが
なぜ正当化されると思うのか?
やはり
「幼稚さが残ったままなのでは・・」
と思うのですよ。
ps.
身近な人のDVに悩む方は
まず身の安全を確保して下さい。
肉体的な暴力でも言葉での暴力でも
「害意」そのものは変わりません。
本人が感情のコントロールを学ばない限り
同じ状況が繰り返されます。
∴-∵-∴-∵-∴-∵-∴-∵-∴
身内への攻撃性をもった人物は
自分自身との葛藤を反映しています。
そうなると、あなたへの執着は
容易なことでは改善しません。
「大事なものを失わないと気付かない」
こういう人もいるのです。
ps.
自分の状態が反映されているとしても
やはり「話しやすい人」「そうでない人」がいます。
話すことは素直な自分を
表現することだってありますから
人選には気を使いますね。
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